はっきり言うが僕は大学の先生が嫌いだ。大いに差し障りがあるのを承知で言い切ってしまうが大嫌いだ。

この「嫌い」に僕自身の品性下劣なあれこれが含まれているのはよおくわかっている。嫉妬も劣等感も、とにかくうんざりするような卑しい人格のあれもこれもが原型をとどめぬややこしさであたかもフランス料理のソースみたいになって僕の血管を流れている。

僕には大学の先生をしている友人知人がいっぱいいる。その一人一人を思い浮かべてみると「嫌い」がぐらつく。話をしても楽しいし、まずまず信頼の置ける人達ばかりだ。誰だって目の前に僕と彼らを並べられたら友人としては彼らを選ぶ。それも自信を持って言い切れる。つまり僕が大嫌いなのは具体的に誰それが嫌いということではない。社会的に彼ら大学の先生という人種がまとっている「信頼感」「安定」「自由」が腹立たしくてならん、という子供じみた理屈にならない苛立ちみたいなものなのだ。

昨年の11月ごろからこの三月まで僕には正しい意味での暇というものがまったくない。毎日起きると同時に仕事を始め、寝る直前まで仕事をしている。大晦日も正月もそうだった。時には仕事のことが頭から離れず、眠れないままに朝を迎え、『こんなことなら仕事してたらよかった』と後悔したりしている。

「アーティスト」という職業は聞こえはいいがそれに相応しい生活をしているのは極々わずかで、ほとんどはクソまじめに仕事一筋で頑張っていながらまったく報われることなく、鬼の税務署職員がおもわずもらい泣くような暮らしに甘んじているのだ。もちろんこの僕も堂々とその一人でそのことはグロスマスターKもご存じである。我々は傷を舐め合いながら、いたわりあい、時々退屈すると相手の傷に指を突っ込んで遊んだりする。

公正と正確を期すために告白しておくが実は僕も大学の先生をしている。おっと、そんなに目を吊り上げないでいただきたい。二十年近く僕が続けてきたのは世にも可哀想な非常勤講師というやつだ。はっきり言うが僕が大学からいただいている給料は月に数万円である。だから僕の収入のほとんどは年に数回行う個展の売り上げにかかっている。もし売れなかったらたちまち僕の生活は掛け値なしの危機にさらされる。

実は先日岡山での個展で知人の陶芸家から聞いた話がこのとげとげした文章の原因なのだ。その話とは、大学教師をしながらアーティストをしている人々は個展そのものが彼らの業績としてカウントされるのだから売れなくてもかまわない、というのである。

自分の個展会場でなかったら僕はこらえきれずにわめきだすかさめざめと泣いていたに違いない。しかもあくまで「研究」なのだから制作に必要な材料費や経費も大学から出ている場合もあるという。僕は羨ましさと訳のわからない悔しさにおもわず失禁しそうになった。

もしあなたが大学教師、もしくは関係者であるなら「おいおい君、大学人にはそれなりの苦労があるんだよ、これはこれでなかなかしんどい仕事なんだよ」とおっしゃるだろう。わかっとる。だがあなたは個展前の身の置き場のない不安や売れなかったらどうしよう、という素っ裸の恐怖とは無縁のはずだ。

世の人々がアーティストに抱いてくださるロマンティックな夢を裏切るようで心苦しいが少なくとも僕はこういう人間で、こういう心を持て余しながらそれでも「美」というやつをやばい生活を背負いながらふらふらと追っかけ回している。それは確かに僕の誇りでもあるが時として救いようのないねばねばした自己憐憫にも姿を変える。この数日がそうなのだ。

「それ、エッセイに書いたらどうですか?」

Kがそそのかした。だから書いた。ますます気が滅入った。クソッ。