僕は高校を卒業する1972年までの五年間を函館で過ごした。巴座、映劇、名画座、これらは僕が通った映画館の名前だ。僕はいつも一人で映画を見た。とげとげした自分を持て余しては僕は映画館の暗闇に逃げ込んだ。

「イージーライダー」「明日に向かって撃て」「冒険者たち」「さらば友よ」当時のヌーベルバーグの潮流から幾分はみ出しているのもあるけれどこれらは僕の函館時代の好きな映画だ。実はこれらの映画には明確な共通点があることに最近気がついた。それは男同士の友情がはっきりとモチーフになっているということ。

例えば「さらば友よ」の場合アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンという対照的な二人の男が銀行強盗という悪巧みを通じてやむを得ず運命を分かち合い、最後は不敵な自己犠牲をもって苦くて甘い友情を実現してしまうというかっこい男の映画だった。幼なじみでもライバルでもない、ただの欲望で一時的に手を結んだ男と男が何故メロス的自己犠牲をやっちまったのか、その不条理が無性にかっこよかった。

あの時代、みんなが無意識に呼吸していた空気の中にはそんな不条理の友情というやつが数パーセント確実に混入していた、と僕は信じている。

男と男の友情という気恥ずかしい世界には互いを高め合うとか利害を共有しているとか、まあそんな解りやすいバージョンもないではないが多くは何の役にも立たないのがその本質なのではないか。

男は役に立たないことをとても恥じる。自分が不要物であることに耐えられない。「役立たず!」なんて言われたら舌を噛みきって死んじゃおうか、と思う。だから道具が好きだ。一応断っておくけど限定された意味じゃなく一般的な意味ですよ。その道具好き、道具を使いこなす快楽が遊びや仕事にも多く関わっている。その有用性、お道具好きとちょうど同量のバランスをとるように男は無益でヤクザな友情というやつに惹かれる。

「さらば友よ」ではアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンは退役したばかりの軍人で、二人は休日の銀行に忍び込み、へんてこな機械を使って何百万通りの数字の組み合わせを解きほぐしていく。「冒険者たち」ではアラン・ドロンはアクロバット飛行のパイロット、相棒のリノ・バンチュラはホットロッドカーのドライバー、いずれも道具と知能と最後の道具である肉体を使い切る仕事だ。主人公達はみんな道具を使うプロで肝っ玉が太く、有用な男達だった。そして彼らは無用な友情の乱費でそれらをチャラにしてしまう。

先日僕は一人の友人を失った。僕よりうんと若いが心の片隅にはいつもちゃっかりと居座っていた妙な男だった。

赤澤清和、享年31歳。

吹きガラスの作家としてぐんぐん勢いをつけていた彼の人生は、映画のフイルムがプツンと切れたようにバイクの事故で幕を閉じた。

無類の派手好きな男がド派手に逝ってしまった。役に立たない友情を楽しむ間もなく、一言の挨拶もなく、消えてしまった。

僕の仕事場に赤澤君の小さな写真がピンナップしてある。でっかい星が背中に描かれた革ジャンを着て、鶏冠みたいに髪を逆立てた、危なっかしくて可愛い写真だ。

その星が、一瞬僕を追い抜き、見えなくなった。