「でましたか!」
一瞬のうちにグロスマスターKの顔が喜色にはち切れそうになった。
「そうですかぁ、ついにでましたかぁ・・・」
何やら得体の知れない深い満足感に浸り、眼はせわしなく泳ぎつつ遠くを見ている。
僕はKを喜ばせてしまった悔しさのような敗北感のようなものに打ちひしがれ、苦いコーヒーに砂糖とクリームをいつもより多めに入れしつこくかき混ぜ続けていた。
何が出たかと言うと、猿、である。
話は数ヶ月前に遡る。
ある日いつものように帰宅してすぐにコンピューターを立ち上げメールをチェックしていたら珍しくグロスからメールが入っていた。
「Hさんが家を売るらしいです。値段は○○○万円、いい話でしょ」
僕がずっと家を探していることはKも知っていてカメラマンのH君からH家の所有している家を安く売りたいと聞いた時に先ず僕の顔を思い浮かべてくれたみたいだったが、僕にはなによりそのお値段が魅力的だった。
家を探しているといってもそれはほとんど妄想かファンタジーのようなものであり、とにかく不動産売買に相応しい資金があるわけでもなく住宅ローンが組めるような年齢でも身分でもないのだからただネットで不動産情報を眺めてはそこで生活し、仕事をしている夢を無意味に膨らませていただけのことだった。ところがKのメールにあった価格はその時たまたま僕の預金口座に残っていた数字より下だったのである。つまり買える、ということである。
その家は岡山市の南に隣接した玉野市の後閑という所にあり長くH家が所有していたがここしばらくはほとんど使われずにいたということだった。
僕はK経由でH君と連絡をとりとにかく一度見てみたいと伝えた。
だが、本当はその時でも僕はその家を買う気はなかった。変にねじれた感覚なのだがどこかで僕は家など買えるはずはない、という締念に長く支配されていて買えるという事態をうまく飲み込むことができなかったのである。昔見た映画にあまりに長く刑務所にいた男が恩赦で釈放されるのを拒む場面があったが、そんな感じかもしれない。
2014年12月のある日僕はH君が書いてくれた丁寧な地図を頼りにその家へ初めて行った。その前にH君から家の写真を何枚か見せてもらっていたのだが実際に見た家は想像していたよりもっと荒れていた。しかし何だか不思議な魅力もあった。もちろんその魅力の半分は間違いなくその値段であったが。
その家は面白い造りで、玄関が二階にある。一階にも勝手口のようなものがあってそれは斜面に建っているからであり、道路から緩やかにカーブした石段を登れば二階玄関、途中から下れば一階へ行ける。長く放置されていた家の中は様々な虫の死骸、小動物のフンで汚れ、どのように手を入れたら住めるようになるのか不安を覚えるほどだったが僕にはその家の不思議な構造と一階の半分ほどを占める隠し部屋の存在、凝った天井の仕様など想像していなかった「面白み」に妙に心惹かれた。一緒に見に行ったNはその荒廃の仕方、そして三方に迫る自然の猛々しさ(いわゆる延び放題の草木)に気圧されて敷地内に入ることさえ怖がったがそれでも玄関に続く石段やちょうど見頃をむかえた椿の咲く庭には心動かされたようだった。
それから一週間ほど思案した末僕はその家を買うことにした。思案した内容はとりあえず住んで仕事ができるようにするにはどこをどう改造すればいいのか、その為にどのくらい資金が要るのか、全体のとりまとめを誰に依頼するのか、などである。細かく具体的に考えれば考えるほどそれらは簡単に解決するようには思えなかったがそんな否定的な気分をいつも立て直してくれたのは先の隠し部屋のことであった。
そこはかつて何に使われていたのかわからないが長細い板張りの部屋で片側の壁は積み上げられた石の上に漆喰が塗ってあってなにか非日常的な空間であった。そこは特に風通しが悪くて湿気がひどく木部には様々なカビが生えて薄暗くちょっと不気味な部屋であったが僕はそこが奇麗に掃除され、整備された時にはきっとどこにもない素敵な部屋になるであろう予感があった。そこに絵のモチーフに買い集めたいろんな古い物や僕の作品をぽつんと置いた空想の私的ギャラリーのイメージはその家を買う最終的な決断を下す力になった、と思う。
さて、買うことに決めてリフォームは若い建築家のK君に頼み、足りない資金は四国銀行のリフォームローンという有り難いお慈悲にすがり、様々な人々の大いなる働きのお陰でその家は実質数週間でリフォームを終えて最初の予定通り2015年3月23日に引っ越すことが出来たのであった。
その数ヶ月もちろん僕はあちこちを駆けずり回り、交渉をし、個展の仕事をし、引っ越しの準備をし、合間をぬってグロスで苦労話を披露しつつ玉野市後閑付近の情報を収集した。そのあたりをよく知る人が口を揃えて言うのは「あのあたりはイノシシが出る」というものだったがほかにも鹿が出る、昔は熊も出た等々。ちょっとした野生の王国らしいのである。
それらの情報はグロスマスターKの歓心を刺激し、僕がグロスに行く度に「イノシシ出ましたか?」とぐっと身をのり出してお聞きになるのだった。その度に僕は「出るかそんなもん。何を期待しとんねん、オマエは」とKの希望を踏んづけてきたのだが4月21日午前10時頃、猿が出たのである。
その日はエアコンが付く日で朝から工事の人が出入りしていた。エアコンが設置されるのは二階なので道に停めた車から電気屋さんが室外機を抱えて石段を登って来るのを僕は二階のデッキから幾分同情を込めて見ていた。その時庭を何かしら生物が悠然と横切り、電気屋さんの目の前を通り高さ1メートルほどのフェンスにひょいと飛び乗って周りになんの注意もはらわず去って行った。その間ものの数秒のことであったがそれは間違いなく猿であった。電気屋さんもあんぐりと口をあけたまま「猿でしたねぇ・・」と呆然と猿の去って行った方を眺めていた。
イノシシや鹿もどうかと思うがどこか猿はちょっとニュアンスの違う驚きがある。「手がありますからねぇ、あいつら」Kは訳の解らない感慨に浸ってもっと遠くを見る目になっている。
とにかく僕はその家を買ってしまったのであり、これからずっとそこで暮らし仕事をしていくのだから猿ごときにいちいち考え込んだりしている暇はない。これからも様々な困ったことが次々におこるだろうが僕はこの家が気に入っているし、この家を買うことが出来たのは今まで僕の作品を買ってくれたたくさんの人のお陰だと思えばその方々への感謝の気持ちは日々新たである。
椿の後は梅、木蓮、桜と次々に庭の花が移ろい、今も一日中うぐいすが鳴いている。アライグマのような顔をした猫が居つき、デッキで日がな毛繕いをしたり餌をねだったりしながら大半は寝ている。
Kには申し訳ないがそれ以降猿もイノシシも出ていない。