随分と長い間ご無沙汰してしまいました。いつもの如く下らないことこの上(下)ない文章を書きかけていたところに大地震がおきた。とてもじゃないが僕の軽さに自分でも違和感を覚えてしまったのがこのブランクの理由の一つです。開きかけた口はその形のままフリーズし、しばらくしてゆっくり閉じてしまった。

当事者の人々は未だ何も癒されぬままとにかく今日という日をなんとか前を向こうとして生きておられ、過去形で語られることには我慢ならないと思う。多くの人がその痛みを想像し「自分に何ができるか」を真剣に考えた歴史的に見ても希有な数ヶ月であったと思うのだがそれ以外にも随分といろんなことを人が考えた日々であったんじゃないだろうか。その中に「自分は幸せか?」「幸せとは何か?」という自問も多く含まれていたと思う。

「東北の人のことを思えばこのくらいしょうがないと思います」こんな言葉をたくさん聞いた。テレビのインタビューで、また実際の会話の中でそういう角度で多くの人が自分の位置を測定し、同情し、我慢していた。

この方法がいったいいつ頃から普及して価値判断の代表的な物差しになったのか、あるいは人間誕生と同時に人は隣人を見て自分を知るのが当たり前であったのか、そんなことはもちろんわからない。ただ圧倒的に多くの人がこの考え方を持っているのは確かだ。不幸を見れば「あの人に比べて私は幸せだ」と思い、隣人の幸福を見れば「私はあの人に比べてなんと恵まれていないのだろう」と嘆く。それは時に嫉妬というより粘着性の強いものに変質し、ありとあらゆる異形の心を生み出す。

人間はこの体質から自由にはなれないのだろうか。もちろん時に人はそれで救われ、優しくもなれるのだからその「あの人と比べて」式の方法を全く否定する気はないのだがこと幸せに関してはそれだけではわからないことが多すぎる気がするのです。ということで今回は僕の幸福論。

Ask yourself whether you are happy, and you cease to be so.
-幸せかどうか自分自身に聞けば幸せでなくなってしまう- John Stuart Mill

言い換えれば人間は幸せな時には幸せかどうかなどと考えないものであるということかな。よく巷で聞くことだが亭主が定年間近になった奥様が「私の人生はこれでいいのかしら」というような物騒なことをおっしゃる。これは別にふと感じた疑問ではなく「この先この冴えない男の冴えない老後に付き合わされるのはまっぴらだわ。私には気の合うお友達がたくさんいるし、お稽古ごとだって忙しいし、旅行だって仲良しグループで行く方が楽しいに決まっているんだからあ」と既にきっぱりと答えは出ている。若者の自分探しも似たようなもの。改めて自分とは何ものか、などと回りくどい言い方をすることもない。「仕事が楽しくないよお」とか「大学の何学部を選んだらいいかわからないし、誰も教えてくれないじゃないか。どうしてくれる」というようなこと。つまりそれらもひっくるめて幸せかどうかみたいなことを自分に聞く時は幸せではないのだし本気で考えるとしたらまず答えなんかあるはずもない設問である。だから考えてるふりなんかしないほうがよろしい。もっと身も蓋もないはっきりした考え方をした方が正直というものではないかな。

Happiness is itself a kind of gratitude.
-幸福というものはすなわち一種の感謝の気持ちに他ならない-John Wood Kruch

なんだかたまらぬ幸せを感じた瞬間があったならその時のことを正確に思い出して欲しい。その時の心持ちを「一種の感謝の気持ち」と言ってそう大きな間違いとは感じないのではなかろうか。誰に何を、というのではない。誰だかわからないがとにかく自分以外の存在に百万回ほどありがとうを言いたくなる、これは幸福の見事な描写であると僕は思う。

あまり流行った歌ではないが岡林信康の「申し訳ないが気分がいい」という歌が昔あった。冒頭はこんな歌詞だった。

抜けるような空が痛い
風がひげを遊んでゆく
申し訳ないが気分がいい
全てはここにつきるはず
どうしてこんなに当たり前のことに
今まで気がつかなかったのか

これはある瞬間に幸福に気付いた男の歌である。ではなぜそれまで気付かなかったのか。毎日見ていたはず、感じていたはずの感覚が改めて幸福と意識されるために何が必要だったのだろう。それは空と風が必要だったのではなくそれこそ「ある種の感謝の気持ち」というべきものではなかったか。それを得て初めて空が青くひげを揺らす風に至福を感じることが出来たのでは、と僕は想像する。

Happiness is the only thing you can give without having.
-幸福だけは自分が持っていなくても人に与えられる-
作者不詳

これが真実かどうかわからないし具体的に思い当たることもないのだが僕の大好きなフレーズです。これに比べると「あの人に比べて私は」的な発想はちまちましている。話はやや逸れるがここの「幸福」を「お金」に置き換えてみると面白い。

持っていないお金を人に分け与えられるか?られるはずない。数学的に考えても0は割れないのだ。無いものは無いのだから嘘でしかない。だがかつて植木等先生は高らかにこうお歌いになった。

銭のないやつは俺んとこへ来い!俺もないけど心配すんな 見ろよ青い空白い雲そのうちなんとかなるだろう

なんとスケールの大きな無責任さであろうか。

さて、ここらで我が身を省みて僕は幸福であるか否かと考えてみたのだが明らかに現実の生活は幸福らしさとはかけ離れている。とにかくないないづくしのスッカラカンでこんな人間が幸福論を語るだけでも幸福に申し訳ないような生活なのである。先日のグロスでの会話。

「矢野さんの欲しいものの優先順位トップは?」

「カーテン」

「あるじゃないですか」

「ちゃんと横に開くやつ」

わかりにくいと思うので補足説明すると、実は僕はちょっと前に引っ越しをした。なんだかんだで新しい部屋に揃えなければいけない物がいくつか買えないままお金が尽きてしまった。だがカーテンがない生活がまことに具合が悪いということに数日して気がついた。僕のマンションの周りはぐるりともっと立派なマンションに囲まれていてのべ数百人に覗かれうる環境だから。その嘆きを聞いてグロスマスターKはグロスの何でも出てくる不思議な物置からごつい生地のピンクの布をぞろぞろ引っ張り出してきて「これでもぶら下げておいたらいいじゃないですか」と言った。そういうわけで僕のベランダの窓にはピンクの布がカーテン代わりにぶら下がっている。

こんな暮らしをしている人間がこんなことを公言するのはまことに気が引けるのだが、僕は実は結構幸せな人間なんじゃないかと密かに思っている。「カーテンも買えない人間が幸せとは断じて許せん!」と怒りに声を震わせる方がいたとしてもこれは気分の問題なのだからしょうがない。

どんな親でも子には幸せになって欲しいと願っているだろう。その意味するところは様々だろうがもしその中に経済的な安定とか老後の保障とか何かあった時のための蓄えとか、そんなニュアンスが含まれていたなら決して僕のようになって欲しいと願う親はいない。そんなに多くは望まないがまあまあの生活、という枠組みには引っ越しをしたらカーテンが買えなくなってしまったような生活は含まれていないはずだ。

それでも、いやそれだからこそかもしれない。僕は幸福であるような気がしている。

Success is getting what you want, happiness is wanting what you want.
-成功は欲しい物を手に入れること、幸福は手に入るものを欲しがること-作者不詳

僕はとてもカーテンを欲しい。その次には寝室の照明器具が欲しい。トイレの便座カバーが欲しい。お風呂の椅子が欲しい。欲しい物リストなら楽にベスト100まで挙げることが出来る。そしてこれらは多分そう遠くないうちに手に入るだろう。その度に僕は大変明確な充足感、つまり幸福を感じ、「申し訳ないが気分がいい~」と鼻歌を歌うのだ。

クレオパトラ、始皇帝のような世界の頂点を知った人間が最後に欲しがるものはだいたい「不死」「永遠の命」と相場が決まっている。こんな手に入れにくいものを欲しがるのは幸福から遙かかけ離れた人生ではないか。

それに比べたらカーテンも便座カバーも手に入れやすい。それを心から欲しいなあ、と思えることを幸せと呼んだら可笑しいだろうか。

だがもし僕が何かの間違いでお金持ちになったらこの幸福は嘘になってしまう。いやらしい虚構になってしまう。そう思うと不安である。「お金持ちになったらどうしよう……」

僕は溶けた氷で薄まったアイスコーヒーを飲み干し、グロスマスターKのとぼけた顔を見た。

Kは無言で『そんなことはあり得ません。心配要りません!』と力強く励ましてくれているようだった。謝謝!