犬のウンコを踏んだ。何と久し振りのことであろう。数十年前最後に犬のウンコを踏んだのがいつであったか、もはや記憶にはない。あの頃野良犬がたくさんいた。だから犬のウンコは珍しくなかった。用心深い子供は少なかったから子供達はよく犬のウンコを踏んだ。

「あーっ!」と叫び声をあげる子供の周りを遠巻きにして他の子供達が「やーい、やーいウンコば踏んだ!臭か、臭かぁ」とはやし立て、それだけで子供達は爆発的に盛り上がった。その昭和の情景にひきずられて変なことを思い出したのだが、僕は福岡市立百道小学校にしばらく裸足で通っていた。学校内でも裸足だったからまったく靴を履かずに生活していた。道は土か砂利道だった。何故裸足だったのか理由も動機も思い出せない。靴を買ってもらえないほど貧しかったわけでもないし、当時世界の英雄であったマラソン選手で「裸足の王者」と呼ばれていたアベべ選手に憧れていたわけでもない。

たぶん、いきがっていたのだと思う。靴を履かないことが何故いきがることになるのかも今となってはよく理解できないのだが、最近あまり聞かれなくなった「バンカラ」の大変幼稚でストレートな表現だったのでなないか。バンカラはハイカラのアンチテーゼであるらしい。つまりハイソックスと革靴に対抗するなら高校生なら断然高下駄なのだが小学生なら裸足である。

恐らくそれで9割がた説明がつくと思うのだが、残りの1割はやはり謎だ。自分で思い出しておきながらちょっと不気味である。だが幸いなことに裸足で犬のウンコを踏んだことはない。

思えば有史以来人間は犬のウンコを踏み続けてきた。人が道を歩く限り人は犬のウンコを踏み、歴史を刻んできたのである。聖徳太子もナポレオンもドストエフスキーもエジソンも、みんな犬のウンコを踏んで何かしらの叫び声をあげ、何かしらの思想やインスピレーションを得て人の歴史に貢献してきたのだ。ならば(のはずはないのだけれど)犬のウンコについて、いや犬のウンコを踏むことについての深い考察があってもよい。踏犬糞学というような学問であり、その研究者が集う踏犬糞学会があって何か一大事がある度にその独自の立場から鋭い意見が発せられ、結構マスコミにも重宝されて……

臭いつながりと括ってしまってはあまりに申し訳ないのだが連想してしまったのだからしょうがない。一人の人物について書いてみよう。

Iさんという鎌倉在住の女性の話である。

数年前オークションの出品者として彼女を知った。その出品されている物があまりに面白くて僕は彼女の大ファンになった。最初に落札したのは18Cオランダ、イギリスのクレイパイプというものだった。パイプというと木や石を削りだした物が多いのだがそれより一回り小ぶりでちょっとウエッジウッド風のレリーフが施してある物もある素焼き陶器のパイプでヨーロッパではコレクターズアイテムらしい。出品された7つのパイプはどれも首から上が欠損していたが僕は一目惚れしてしまった。どう使うか、何の役に立つかなどということは一目惚れには無縁である。『何が何でも落としたる!』と意気込んでいたらそれらは驚くほど安い値段で落札できてしまった。落札後のメールのやりとりで僕は「こんなに安く落札してしまってなんだか申し訳ないです」と気持ちを伝えた。それから僕は彼女が出品する物を追いかけるようになったのだが今年の6月僕の東京市ヶ谷での個展に彼女が来てくれた。色んな話をするなかで何がきっかけだったか忘れたが彼女の嗅覚の話になった。

Iさんは食べ物の好き嫌いが激しいのだが特に生臭い物が一切だめだという。それが度を外れた敏感さで魚をのせた皿などは普通の洗剤で洗ったぐらいでは全然だめで磨き粉でゴシゴシ洗い倒さないとその生臭さがとれないのだと言う。僕は「アハハ、それ気のせいと違います?」

と軽く失礼なことを言ってしまった。Iさんはキッと真面目な顔をして「絶対気のせいなんかじゃありません。食器棚にしまった食器の中でちゃんと洗えてないのがあったらそれを嗅ぎ分けてもういちど磨き粉で洗い直すんです」とおっしゃった。そこまでの嗅覚は常人には想像するのさえ難しいのだがご本人には明らかな事実なのだからもう恐れ入るしかない。

実は僕は嗅覚が人よりかなり劣っている。昔やっていたモザイクガラスという器を作る技法の仕事で嗅覚がアホになってしまったようなのだ。最後の仕上げの時にガラスの表面を色んな道具で研磨するのだがその時に発生する細かなガラスのホコリのようなもののせいじゃないか、と思っている。そのせいもあって僕はその技法を十数年前にやめてしまった。それから数年はほとんど嗅覚が利かなかった。最近はかなり回復したつもりだがIさんと比べたら無いに等しい。

そういう鈍感な人間は敏感な人間にはさぞかし腹立たしい存在と映るだろう。『なんでわからんの!』と舌打ちされてもしょうがない。鈍感な本人は少しも困らない。嫌な臭いは臭わないし、いい臭いが臭わなくてもその存在に気がつかないのだから残念でもない。なぁーんにも困らない。そう考えると嗅覚に限らず聴覚、味覚などあまりに敏感な人は大変やろなぁ、と同情してしまう。

例えば聴覚が猫並みの人がいたらこの世はさぞうるさかろう。コンサートに行ってもほんの僅かな音のずれが気になって音楽を楽しめないのではないか。僕は絶対音感みたいなものはまったく不要のもの、と思っている。美しい音楽を作ったり奏でたり鑑賞するのに絶対音感なんか役に立たない。味覚だって適当に鈍感な方が食生活は楽しい。世の中には調香師とかソムリエみたいなほんの僅かな違いを峻別できて記憶することで成り立つ職業がある。そういう並はずれて感覚的なプロというのは確かにかっこいい。でもあまり幸せそうじゃない。

世の中一般の方々はアーティストという人種をものすごく敏感で壊れ物のように思っている方が多い。僕もそのようにイメージされている方がおられるみたいなのだがそれは面映ゆくもあるしなんだか自分がニセモノみたいで目が合わせられなくなってしまう。敏感で傷つきやすいどころか鈍感で壊れにくい、僕の存在を支えているのはそういうところだと思っている。

だがそういう鈍感一筋ではなく何かはある、と思いたい。それがIさんの嗅覚ほどではなくともどこかかに人より敏感なところがあると思いたい。例えば人が10の目盛りで判断していることを100の目盛りで測っているような。そう書いてみてふとわかったような気がするのだが、僕にあるのは人が感じないようなことを感じる能力ではなく人より細かな精度でものを測るといった種類の能力なのかもしれない。そしてそれは天賦の才ではなく後天的なもの、仕事として数十年続けてきたことで知らず知らずに身に付いてしまったものであろう。

この類の精度というのは僕に限らずどんな分野の職人さんにも備わっている。例えば高さ80mmの湯飲みを100個という注文を出せば陶芸を10年も本気でやってきた人ならまず1mmの誤差で揃えることができるはずである。

昔寿司職人の小野次郎さんのドキュメンタリーをテレビでやっていたが次郎さんの握る寿司の飯粒がどれも同じ数であることを神業のように紹介していた。だがそれは次郎さんのみが為し得ることではないと思う。

テレビというメディアは視る人がわかる、ということを意識しすぎているんじゃないか。それによって強調するポイントがよくずれている。数字で表現できることにこだわりすぎている。それは今のテレビが視聴率や放送時間という数字にものすごく敏感であることと関係があるのかもしれない。

またズルズルと話が逸れてきた。

とにかく僕にも職人的な精度というものはあるんじゃないか、あってほしいなぁということである。それ以外の天才的な鋭さなんてものはない。ひたすら鈍感に傷つきにくくしぶとく生きている。Iさんの超絶的嗅覚みたいなものが僕に与えられていたらきっと違う人生を歩んでいただろう。だがそれは何の意味もないifであり後の祭り、である。

そういえば「鼻が利く」という言い方は比喩的にものを探す能力に長けていることを表すが、Iさんがヨーロッパで探してくる物があんなに魅力的なのはそのスーパーな嗅覚と関係があるのかもしれない。

今日も僕はほとんど役立たずの鼻をヒクヒクさせながら「今日のコーヒーは一段と香しいのぉ」などと適当なことを言っている。犬のウンコを踏んでもしばらく気がつかない情けない嗅覚であるがコーヒーにだけは人並みに反応している、と思いたい。

「ア、ソーデスカ」と気のない返事をするグロスマスターKの背後の棚にはIさんがオークションに出品してKが落札したパイプが二つ並んでいる。Kの何を考えているんだかわかりにくいとぼけた顔とパイプに彫られたナポレオンの顔を同時に見ながら『どっちも犬のウンコを踏んだんだろうなぁ……』と思い至るシュールな夏の午後でした。