大阪梅田の阪急百貨店はものすごく大きいので僕は簡単に迷子になる。スマートフォン時代になって迷子は絶滅しかかっているが僕はしぶとく生き残っている。

画廊は7階にあり、煙草を吸えるブースは12階にあるのだがその行き来だけでもまだ最善のルートが見つけられず迷ってしまう。迷ったついでにそのあたりの売り場を見て回ったりするのだがそれがまた迷子に拍車をかける。

今日は昨晩泊まった南森町のホテル近くでモーニングサービスの朝食をいただき地下鉄谷町線で一駅の東梅田駅で降りた。そこから阪急百貨店まで歩いてどのくらいか、昨夜も逆方向に歩いているのだから普通ならわかりそうなものだがそこはそれ、僕の場合は何が起きるかわからないので早めに南森町を出たらあっという間に阪急百貨店の入口に着いてしまった。開店まで10分ある。

たくさんあるデパートの入口にはすでにそれぞれ20人ずつぐらいの人が待っている。みなさんどこか目当ての売り場があるのだろう。僕はもちろん買い物にきたのではなく自分の個展をここでしているのだ。大都会の大デパートの開店前の時間。何もすることがなくただ時間が過ぎるのを待っている。そういう時僕はよく変な気分になる。離人症という症状があるそうでそれは自分が自分を他人を見るような気持ちでしか見られない、いわば自我がどこかにかくれてしまったようなものらしいのだが僕の場合は自分がやっていることと自分を含む環境とがうまく噛み合ない、要するに今に現実感が乏しいのである。デパートを会場にした個展の場合はその施設の規模の大きさと自分の存在の小ささとがどうやっても釣り合わないのだ。では地方の小さな個人ギャラリーなら釣り合うかというとこれはこれでなんだか申し訳ないような気分がある。どちらにしても「ハレ」の場というのがうまく飲み込めず喉にひっかかってしまう。

別に僕は作家としてインチキをしているわけではない。30年以上も誠実に必死にものを作ってきたという自信はあるし見て下さった人をがっかりさせるような、退屈させるような個展はしていないと思っている。そういうこと以前の問題のような気がする。

なんだか昔からずっと違和感を感じながら生きてきた。どんな場所にいても異分子、ヨソモノ、まがいものの感覚から自由になれたことがない。これはもしかしたら父が転勤族で僕が転校生だったというあたりに根があるのかもしれないが最早確かめようはない。

更にこれは自分が密かに抱え込んでいる問題ということでもなくてどうやら周囲の人にも伝わってしまっているようなのだ。

かつてバンド生活をしていた時に僕はうまく紛れ込んでいるつもりだったのだが、数年前に昔同じ店でバンドをやっていたT君が久しぶりに電話をくれて昔話をしていたとき「なんでこの人はこんなところにいるんだろうなぁ、とずっと思っていた」と言われてやはりそうなのか、と思った。

バンドを辞めてデザイン事務所をやっていた時にも、その後作家になりたくて大学院に行っていた時も、そして今のように自分の個展会場にいても僕はずーっと「どこからか紛れ込んできたヨソモノ」であったと思う。

「ここにいていいのかな?」という頼りなさをごまかす為にその時その時を頑張ってきたのかもしれない。

子猫みたいに首根っこをつままれて告解室に放り込まれたら(絶対に自分からは行かない)僕は「スミマセン、ボクハズットニセモノデシタ」と言うだろう。そんなこと言われても神父様も神様も手の差し伸べようがないだろうが。

今までも書いてきたが僕は一昨年の春に玉野市後閑というところに引っ越してきた。それまでの約15年のマンション暮らしをようやく卒業し、一件の家を手に入れた。それは荒れ果てて恐ろしげですらあった古い別荘だったがとにかくだれからも出て行けと言われる心配のない、屋根と壁と床のある空間で寝起きするようになった。一階は仕事場で二階が生活の場、半径500メートル以内に家は三軒しかなく誰に気兼ねなくいつでも仕事が出来て好きなように生活が出来る。もちろん僕はこの家に充分満足している。

それなのにここが自分の家である、この土地も庭も生えている木も自分のものであるという気がしない。借家に住んでいるという感じとも違うのだがこんな自分が何かを所有したりまともに人様に受け入れられているというのがどうも不思議なのだ。

今は阪急百貨店の7階にいるのだが玉野市後閑の家には三匹の猫が閉じ込めてある。モモちゃん、モモちゃんの子供のMちゃん、モモちゃんのにいちゃんの三匹であるがやはり彼らが僕の猫だという感じもない。餌がなくなればニャーニャー鳴くし、何を御所望なのかやたら足元にまとわりついたりもする。ここにいても『餌はまだあるかなぁ、水をひっくりかえしたりしてないかなぁ・・・』などと心配もするのだが僕の猫だとはどうしても思えない。

多分これは心のど真ん中に開いた穴みたいなものなんだろう。だからどこにいようと何をしていようと何が対象であろうと百発百中必ず僕の心を捕らえる。

生まれた時からさっそく道に迷い、あまりにたくさんの間違った角を曲がってきたので自分がどこにいるのか、どこから来たのかわからなくなってしまっているのだ。この根源的ないたたまれなさ、ここにいることの場違いな感じはこれからも続くに違いない。

今買い物に来られた御婦人がたまたま画廊に入ってこられてちょっとこちらが赤面するほど誉めて下さった。ご自身も少しガラスをやられているらしくそういう方が技術的なことでは一番驚いて下さる。だがいくら人様が誉めて下さろうと、いやむしろ肯定されればされるほど自分への「ニセモノ疑惑」は深まるのだ。

この個展が終わると二週間ほどで東京の個展が始まる。その次が名古屋、その次が京都、年の最後が地元の岡山天満屋だ。今年は9月から12月まで東海道山陽新幹線のぞみ号停車駅シリーズ。それら大都市で嫌というほど自分への嘘臭さ、居場所のなさを満喫して岡山に帰ってくる度にグロスで怪しいため息をつくのだろう。

僕が落ち着いて座れるのはグロスカウンターの椅子だけなのかな。あるいは椅子の問題ではなくその向こうのうすぼんやりした顔なのかもしれない。

尊敬もされず逆に責められもせずほったらかしにしていただける、ほとんど無関心で虚ろに受け入れて下さる、あのぼんやりしたご尊顔はまことに有り難い。合掌!