その女性は杖をついて画廊に入ってきた。ついそこで、今しがた、いいことがありましたというような笑顔で僕の方を見て、それから作品を一つ一つ見て回った。その時僕は他の女性と話をしていた。その人は点描で絵を描くことに取り憑かれてしまい、耐え難い頭痛に悩んでいるというかなり浮世離れしたシュールな話を聞かせてくれた。その不思議な女性が帰った後、先の女性が少し足を引きずって僕の前に立ち、「私もフレスコを描いてるんです」と言った。なるほど、彼女の嬉しそうな顔の意味がわかった。僕も彼女も自分以外でフレスコを描いている人に出会うのは初めてだった。他の人があまりしないことをしている人にとって、教えを請うとか相談に乗ってもらうとかいうことは最初から諦めている。あるいはそういうことが苦手な人がいつのまにか他人と幾分噛み合わない人生を送る。

「嬉しいわあ、初めてフレスコを描いてる人と話ができる」向かいのソファーに腰掛け彼女は何度も何度も嬉しいを繰り返した。

彼女はKさんといい多摩美大を卒業した後あれやこれやの紆余曲折を経て今は絵画教室みたいなことを広島でしているらしい。来年は今僕が個展をしている広島天満屋のアートギャラリーでの個展が予定されている。

僕は福山より西での個展は今回が初めてだ。広島には知人もほとんどいないし、何度か美術館に来たことと随分前にガラスのコンペの表彰式に来たことがあるぐらいであまり馴染みのない地域だったがKさんに会えたことでこの街は一気に僕にはフレンドリーな街になった。

Kさんは堰を切ったように自分のこと、仕事のことを話し始め、フレスコに関しての幾つかの質問をした。僕もフレスコは自己流だし自信を持って答えられることはあまりないのだが彼女にとって僕の答えの中身はあまり問題ではないんじゃないか、と思った。自己流の生き方をしている人は自分が見つけた答えしか信じない。だがその自分の答えが実はとんでもない勘違いなのではないか、という執拗な不安を持病のように抱え込んでもいる。それならそれでもいいじゃないか、結果all right!と理屈にもならない強がりで自分をなだめてもいる。そう、インドを探し回って結局アメリカ大陸を見つけてしまったコロンブス君のように。だが自分の現在地さえ自信を持てない不安の根は深い。そういう人間が欲しいのは「それでいいんだよ」「そっちで大丈夫だよ」という言葉である。だから僕も無責任に言った。「それでいいんじゃないですか、きっといいんですよ」

フレスコの下地の作り方など実際には僕と彼女のやり方は随分違っていた。だが何年も経って画面に悪い変化がおきていないのならそれでいいのだ。

Kさんはそれらの話が一段落ついた頃会場の片隅に貼ってあった僕の略歴に目を止め、なんだか怪訝そうな顔をした。

「ガラスもやってるの?」

知ってる人は知ってるのだが僕の作家スタートはモザイクガラスという古代ガラス技法の一分野である。フレスコの個展中は僕は画家なのでガラスの話はしないのだが略歴の中の(古代ガラス技法のモザイクガラス復元に取り組む)という一行に反応したらしい。

「ええ、実は作家としての最初の個展はモザイクガラスという吹きガラス発明以前の成形技法で……」彼女はそれを遮るようにモザイクガラスの大まかな技法を逆に解説し、「ですよね」と確認した。

「実は私多摩美を出た後東京ガラス工芸研究所に行ったんです」

驚いた。東京ガラス工芸研究所は由水常雄さんという日本で、もしかしたら世界で最初にモザイクガラスの研究に本格的に取り組んだ方が主催しているガラス学校である。僕は無関係だがガラスの仲間には何人もそこの卒業生がいる。

もちろんフレスコとガラス工芸の間には何の共通点もない。そこに共通点を見出せるぐらいなら坂本龍馬とグロスマスターKとだってそっくりに違いない。

ひとしきり僕達はこの偶然性とガラスの話をし、彼女はまた何度も嬉しいを連発した。そしてまた彼女は僕の略歴パネルの前に立ち、その最後の一行にあった「陶彫」という単語に目を留めた。

「陶彫って?」

前にも書いたが僕は大学院の同級生であった時光君に彫刻の制作過程の石膏取りという技術を教えてもらった。それはモザイクガラスの制作に必要なテクニックだったからだが彼の制作現場を見ているうちに自分でも彫刻のようなことをしてみたくなり、土で形を作ってそれを金属や樹脂に置き換えるのではなくそのまま焼いてしまういわゆる「テラコッタ」のような方法で立体作品を作るようになった。それが二十年ほど前のことである。

ただテラコッタの作品の土肌が赤色なのに対し、僕はそれを黒陶という技法で黒くしたり部分的に釉薬を使って色を出したりしている。

その説明をしている間Kさんはなんだかうずうずと不思議な表情をしていた。僕の言葉が途切れるのを待ちかねたようにKさんは興奮した声で言った。

「今私がやってるの、まさにそれです!」

彼女が恥ずかしいけど見て下さい、と言ってさっきくれた数年前の個展の葉書を改めて見てみると確かにそうなのだ。作風が違うので気がつかなかったが技法的にはまったく同じだった。

「私、57歳なんですがこんなに共通点のある人がこの世にいるなんて信じられない……」

なんと、歳も同じだった。

ある指針を持って生きてきたわけではない。曲がり角に来るたびにさいころを転がしてあらぬ方向に折れ曲がってきた僕の半生の形と150キロ離れたこの広島の地に同じ形を描いていた人生があったとは。

直線は100メートルであろうと5センチであろうと形は同じである。だが二本の線で出来た形は無限の角度の変化がある。ましてそれが三本の線で構成された三角形であれば三本の線の長さが同じであるか二本の線の長さとその間の角度が同じであることを証明しなければ合同ではない。僕とKさんとの形の相似はそれ以上に複雑な形に於いて、であろう。

それは百頭立ての競馬のもっとも人気薄の三頭の三連単を一本買いで当てたようなものに違いない。配当はゼロだけれど僕もKさんもその時なにかしらの幸運を感じていた。そしてその中には何故かいくらかの哀しみに似た感情も含まれていた気がする。

ずっと孤独を当たり前として生きてきて、作品はともかく自分の中のどうしようもない「個」の部分は誰にも理解されず説明も出来ぬものと諦めていたのにふいに鏡に映したように同じものに出会ってしまった。そしてやはりそれは少々痛ましいのだ。僕と同じような人生を送ってきた、というだけでそれはもう気の毒なのだ。

雲の遙か上の方から見ることが出来るなら全く無関係に離れた場所に生まれた二人の人間が相似形の人生をそれと知らずそれぞれに生きているのはきっと面白い眺めだっただろう。そのようなでたらめな形を描くプログラムとはどんな目的で誰がどのように作ったのだろう、と思わずにはいられない。

知らぬ街で個展をすると思わぬ出会いがよくある。広島展での出色の出会いはKさんだった。この先Kさんとまた会うことがあるのか、それはわからないが少なくとも僕の中にもう一人の僕のような存在はくっきりとスタンプされた。

広島の空の下で元気で暮らして欲しい、と心から願う。そして、なかなか一筋縄ではいかぬ日々の暮らしの中で僕にとってのグロスのような、何を言っても許されてすぐ忘れてもらえる有り難い場所が彼女にもありますように。

追記 やっと今年最後のグロスカウンターを書き終えたところで明石のガラス作家Oさんが電話してきた。そういえば彼女も東京ガラス工芸研究所出身である。

「広島の個展、いつからですか?」

「終わったところ」

「えー!連絡くれるって言ってたじゃないですか」

「……」

「奈良の宮崎さんと一緒に行くからスケジュール教えてって言ってたでしょ」

「ゴメン。まったく忘れてた」

いやはや、忘れるのはグロスマスターKの得意技だと思っていたのだがなぁ。感染したか。