久しぶりにグロスへ行ってみると外でグロスマスターKが何やら作業をしている。グロスの入り口には看板以外に亀の水槽、いろんなものが植わった鉢などが微妙な秩序で配置されているのだが今日は何かの苗を植えているようだ。「精が出ますなぁ」と背後から声をかけると「あぁ」といつもの気の無い返事が返ってきたのだがなんだか振り返り方がおかしい。いつものカウンターに座って冷たいコーヒーをいただきながらよく聞いてみると寝違えて首が動かなくなったということだった。古いロボットみたいな動きはそのせいだった。僕はこういう話が大好きなので大いに機嫌が良い。もちろんKにとっては笑い事ではない。それを笑うのは人として恥ずかしいことなのかもしれないのだが我慢ができない。そこでいったい僕はどんなことを面白いと感じるのか自問してみた。先ずは最近一番面白かったことを思い出そうとしてみるとすぐに浮かんだのはやはり猫に関してのことであった。
このグロスカウンターに何度も猫のことが登場してきたが今一緒に暮らしているのは「ももちゃん」と「にいちゃん」の二匹だ。代々猫の名前は我が家の庭に生えている木の名前からとってきた。だからももちゃんはもちろん桃の木から命名された。ももちゃんは「ツバキ」の子で4人(4匹)兄弟であったのだがずっと外猫だった。みんな同じ柄でとにかくあちこち走り回っていたのでその4匹の見分けが僕にはつかなかった。そのうちに1匹、また1匹といなくなり1匹だけ残ったのでその子猫にはももちゃんという名前をつけてやった。それから数ヶ月経って家の前の側溝で猫の鳴き声が聞こえたのでじっと見てみるといなくなったうちの一匹だった。その間どこでどうやって生きていたのか知りようがないけれど尻尾の先が変なふうにカクッと曲がっている特徴を覚えていたのでその汚れた子猫がももちゃんの兄弟であるのは間違いなかった。一匹だけになっていたももちゃんが少し可哀想に思えていたので一緒に生まれたその猫が帰ってきたことが僕は嬉しく僕はももちゃんに「にいちゃんが帰ってきたよ」と話しかけた。それ以来にいちゃんは庭の木の名前ではなく「にいちゃん」と呼ばれるようになった。長くなってしまったが本題はももちゃんのことである。
ももちゃんは小柄なメス猫で耳が大きく親バカ承知で言わせていただくなら美人である。だが同時に素晴らしく優秀なハンターでもある。とにかく動くものはなんでも狩ってくる。ある日ももちゃんがネズミを咥えて家に入ってきた。何か咥えているときはいつもと鳴き声が違うので僕は慌てて縁側の猫ドアを見てみるとももちゃんがネズミを咥えて猫ドアをくぐっている。日頃何をしても「おーよしよし」とアホみたいに甘いのだがこの時は思わず「コラッ!」と怒鳴った。ももちゃんはネズミを咥えたまま部屋の隅に隠れようとする。僕はももちゃんを捕まえて口を開けさせネズミを解放してやった。もちろん一目散にネズミは逃げる。それをももちゃんが追いかける。ももちゃんを僕が追いかける。その必死の電車ごっこがしばらく続き部屋の隅に追い詰められたネズミを一瞬早く僕が捕まえて庭に逃がしてやった。ももちゃんは微妙に不満げな声で鳴きながら僕を見ていたが僕はすっかり息が上がって部屋の真ん中にへたり込んでいた。そのうちに可笑しくなって一人でしばらく笑った。僕が声を出して笑うのはこういうことでありそれに対して人の話を声を出して笑うということはほとんど思い出せない。
僕は仕事中によくラジオをかけている。音楽を聞きたいのだがラジオの番組によっては音楽よりは話が多い。その番組のメインのキャスターがゲストのミュージシャンに色んな話を聞きながら合間に曲をかけるのがラジオ番組の普通の構成なのだろうが時にうんざりすることがある。例えばゲストが最近あった面白い話をする。ドッと笑い声が響く。それが本当に面白い話なら僕もご一緒させていただくのだがまずそれはない。たいていは話を披露した人が自分で笑い始めて聞いている人がそれに合わせて笑っている。『ああ、これは面白い話なんだな』と気がついて番組を盛り上げるために笑っておきました、という感じである。こういうのはとても苦手だ。どんどん気持ちがささくれ、冷めていく。こういう光景を実際に経験することも少なくない。特に飲み屋さんなんかで爆発的な笑い声が起きて いるのでどんなに面白い会話なのかと聞き耳を立ててみたらやはり本人主導のお約束笑いである。僕には笑わなければいけないということは苦痛でしかない。ここまで書いて気がついたのだが要するに僕は「~しなければ」ということ全般嫌いなんだと思う。笑うことは本当は大好きであり日常的に探してさえいるのだがみんなが笑っているのだからあなたも笑いましょう、と言われたら意地でも笑いたくない。
つい最近気持ちよく楽しく笑ったことがもう一つあったのを思い出した。僕はほんの一月ほど前からジムに行っている。あまりの自分の体力の無さに危機感を覚えて行き始めた。最初は自転車を漕いだりストレッチをしたりしていたが面白くない。そこでプールを始めた。プールは自由に泳げる時間と何かのレッスンをしている時間がある。ところが何度か行ってみた結果むしろレッスンをしている時にそのレッスンに関係なく空いたレーンで泳ぐのが一番勝手に泳げることを知った。ある日アクアビクスというレッスンをやっている時に僕は端っこのレーンで泳いでいた。レッスン受講者と僕以外は誰もいなかった。アクアビクスとはおおよそ想像していただけると思うがプールに浸かった状態でやるエアロビクスみたいなものだった。参加者はおよそ10人ほど。平均年齢は七十数歳、平均体重も七十数キロ、ちょっと驚くほど皆さん似かよっている。インストラクターの若い女性だけがプールサイドに立って大きな声で号令をかけながら見本を見せるとプールの中のレディたちがそれに合わせて体を動かしている。その動きもなかなか揃っているところを見ると結構やりこなしておられるようだ。僕はそんなことはお構いなく端っこのレーンでバシャバシャと必死で25メートルを行ったり来たりしている。自分ではわからないがものすごく悪いフォームでほとんど溺れそうに見えたかもしれない。これ以上泳ぐとどこか痙攣しそうだなあと思って休憩中レディ達に目をやってみて先ほどの光景に気がついたのだ。それと同時に僕は自分を含めたこのプール全体の俯瞰した光景を頭の中でありありと見た。そして笑ってしまったのだ。
何が可笑しくて笑ったか、というようなことを説明するのは情けないほど野暮なことだけれどこれはやはり説明しておきたい。
レディ達のお姿が面白かったのではないし自分の溺れかけた水泳フォームが面白かったのでもない。それぞれが本気で必死におこなっている情景の取り合わせ、想像の中で見えたその全体の映像のシュールさが僕の笑いのツボを刺激したんだと思う。
思えば僕が思い出して笑ってしまうことの多くは自分を含めた景色である。これはもしかしたらいびつな自己愛なのかもしれない。これもいびつな結論だろうがどうも笑いとは愛に関係している。そんな気がしてきた。
僕はKに山椒の苗を一本もらいご機嫌でグロスを出た。駐車場の車にむかう途中「しまった、お大事にというのを忘れた」と思い出したがまあいいか。きっと次に会う時は何事もなかったようにKの首はちゃんと回っているはずだ。でももう一つの意味で首が回らなくなっているかもなぁ。お大事に。