
「ボン!」と派手な音がしてグロスマスターKが飛び跳ねた。こっちを見た目が怯えている。
愉快、愉快、僕は悪いな、と思いつつ笑ってしまった。
お客さんのどなたかがくれた栗をどうやって食べたら美味いかなあ、という話になったので僕が「秋はやっぱ焼き栗やで。パリの焼き栗食ったことあるか?」みたいな適当な挑発にKはまんまと乗ってきた。どうせならここにしかないもので焼いてみたい、それはコーヒーの焙煎機やろ、と言うとKは「あれはコーヒー専用です」と頑なである。融通自在、柔らかいこと豆腐の如き人格のKであるがことコーヒーが絡むと急に頑固一徹の喫茶店マスターに変貌する。そうなると僕も意地になって「ダイジョーブ、ダイジョーブ、栗焼いたぐらいで壊れるもんか、もしかしたらマロンコーヒーとかなんとか新メニューが誕生して大儲けできるかも……」
「爆発したりしませんかねえ」
「するか!パリではしてなかった」
一応断っておくが僕は本当にパリで焼き栗を食べたことがある。ただし三十年も前のことであり、味も姿もまったく忘れている。でも僕にとってそれがパリのほとんど唯一の思い出であるのも事実である。
ルーブル美術館も行かなかった。シャンゼリゼ通りもモンパルナスもモンマルトルも行かなかった。凱旋門もエッフェル塔も見てないし当然ブランドショップにも入ってない。どこだかわからないさびれた通りの屋台で焼き栗を買い、一人でぶらぶらと歩きながら焼き栗を食べたことしか覚えていない。
まあ、この際それは関係ない。
Kのコーヒーマンとしての自覚もプライドも僕の執拗な説得と「大儲け」という殺し文句にあっさり引き下がり焙煎機で生栗を焼くという暴挙に踏み出したわけである。
ガラガラ回りながら栗が焼けていく。もちろんいつものコーヒー豆の香りではなくもう少し単純な、木の実が焼ける臭いがしてきた。
「おお、ええやんけ。これやがな。秋のパリの香りや」そう言われてもKは心配そうな顔で焙煎機を見ている。「やっぱ大きな音がしますね」
「うむ。そら、ま、コーヒー豆よりはちょっと粒がでかいわなあ……」
何を考えているのかわからない、と僕はKのことをよく評してきたが今もKは無表情と言えば無表情、複雑と言えば複雑な顔をしていたが突然何の相談もなく(もちろん相談しなければならない道理もないのだけれど)焙煎機のふたを開けた。
その時派手に栗がはじけたのである。
泣きそうな顔(あるいは怒っていたのかもしれない)でKは叫んだ「爆発したじゃありませんか!」
「うん、びっくりしたなあ。そう言えば火中の栗を拾うという言い回しがあったよなあ。猿とかにと臼が栗でどうこうみたいな話があったっけ」
「さるかに合戦でしょ。猿を懲らしめるんですよ」
「おまえは猿か」

まだ怒ったような微妙な顔でKははじけた栗を一つ僕の前に置いた。ちょうどむきやすいように端が焦げている。そこに爪を差し入れて引っ張ると皮がむけてほかほかの栗の実が湯気を立てている。口に放り込んで食べてみる。ぽくっと割れて野性的な味がした。あまり甘くない、なんだかわからない木の実の味と香り。これが本来の焼き栗の味なのかあるいは出来損ないなのか判断できないがとにかく食べることは出来た。
観察していたKも一つ手に取り皮をむき食べている。
「うまいですねえ」
「うん。素朴で力強いな」と適当に相づちを打ちながらもなんだかリスにでもなった気がする。
「いけますよ」
「むきやすいしね」
もう一つずつ爆発焼き栗を食べ、僕はグロスを後にした。
「ああおもろかった。さてと、帰って仕事でもすべえかなあ」
人それぞれ自分の好きな遊びがある。僕の一番好きな遊びはこういうことなのかな、と駐車場への道を歩きながら僕は思い出し笑いを噛み殺した。栗が爆発した時のKの驚きぶり、引きつった顔が脳裏を離れない。僕の遊びには「Kいじめ」が含まれていないとは言わないがそれよりも普通しないようなことをして結果的に自分がかなり愚かであることを知る、みたいなことだ。
そういえば半年ほど前にも同じようなことをしたことを思い出した。その時は確か豆の話からコーヒー豆以外にもコーヒーのような飲み物ができるんではないか、ということになり僕は岡ビルという近くの市場に走って行って黒豆、大豆など数種類の豆を買ってきて焙煎してみた。それを挽き、ドリップして二人で飲んでみたことがある。結果、それは悪くなかった。コーヒーというよりお茶だったが香ばしくて上品ななかなかいい飲み物だった。
「カフェインレスでポリフェノールたっぷり。これメニューに入れられるんとちゃうか」ということでその後お客さんにも出したりしているみたいだ。
もっと前に備長炭を焙煎機にコーヒー豆と一緒に放り込んでみたことがある。
ま、とにかくそういうことが僕もKも好きなのだ。『もしかしたら儲かるんじゃないか……』というスケベ根性もあるにはあるのだが基本的にはただの思いつきでありその時だけの遊びである。

世の中に普及している遊びはすでに商品である。当然他人が計算したコストがあり他人が作ったルールがある。コンピュータゲームもゴルフもそのコストとルールの柵の中で興奮したり努力したりして遊ぶ。僕はそういう遊びには興味がない。先ずコストについていけないという哀しくも厳しい現実があるのだから興味がないというのは強がりかもしれないが焙煎機で栗を焼くこととゴルフの間には何か深く根本的な違いがある。
その違いをまたここでねちこく論じたいところであるが大風呂敷を広げすぎてどう畳んだらいいのかわからなくなって途方に暮れるといういつもの事態になりそうなのでやめておく。
秋の夜は長い。本を読むもよし。丁寧にコーヒーを入れるもよし。
僕は今日知人にもらった煮ピーナッツという不思議な食べ物を『これをあの焙煎機でもう一度焼き直したらどうなるんやろ……』と……。