前回二冊の本のことを書いたが、その後も何冊かの本を読んだ。僕にはこれといった読書傾向はない。面白ければよいのであって面白くなければ書き手の技量がないか人格がつまらないかである、と決めつける。タメになる本は読まない。読書で自分を成長させる気はさらさらない。

一番最近読んだのは小池真理子の「虹の彼方」という小説だった。主人公は志摩子という美人女優と正臣という人気小説家。志摩子は48歳、笑顔は瑞々しく見る者をうっとりさせる。すらりとした立ち姿、弾んだような身のこなし。時として女子大生にも見える恋多き人気女優。正臣は43歳。長身でわずかにウエーブのかかったつややかで柔らかそうな黒髪。小麦色に引き締まった細面の顔。天賦の才能を持った順風満帆の売れっ子作家。この二人が道ならぬ恋に堕ちていく悲恋のお話し。

僕は恋愛小説というのも嫌いじゃない。だが最近この種の小説を読んでいて何だかリアリティーを感じることが少なくなってきた。それは男と女の間に生じる春の季節、他のことがどうでもよくなる熱病、そういうスイートをなんでも否定したくなる年齢に僕が達してしまった、みたいな哀しいお話しじゃなくって。そういうことの描き方に飽きてきた、というべきかな。つまり恋する女は必ずほっそりしていてそのくせナイスバディーで、黒目がちで年齢より若く見え、センスが良くて神秘的。男はやはり細身で長身で、しかしがっしりしていて肩幅広く、もちろんハゲてなくて何故か時間の自由になる職業でお金に不自由していない。そういう前提でしか恋愛小説というものが成り立たないのかな、という不満を覚えているということ。書く立場に立ってみたら、まあ確かにその方が好都合なんだろう。恋愛小説といえど、ひたすら好きだ好きだ、気が変になってしまいそうだよおぉ、の繰り返しでは物語にならない。そういう忘我の奈落に転げ落ちる段階として、やはり美男美女の方が説明が要らない。当然先ず外見に惹かれあうのであろうし。そして、そうなった後で二人がステキな時間を、つまり読者をアホな気分にさせるような時間を作るには男がいつでも女に会いに行ける自由業でお金持ちであることが望ましい。例えば一流アーティストだとか成功してる自営業だとか売れっ子小説家だとか大学教授だとか、ね。

そこでやね、ヒネクレ者の僕としてはついあらぬことを妄想してしまうのだが、例えばあばた面で髪はあくまで少なく、メタボなのに肩幅狭く、リストラ寸前のサラリーマンA氏と、A氏が通い詰める定食屋のアルバイトで、顔面広大にして三白眼、ユニクロ以上の服は一枚も持っていない、汗かきのB子さんが繰り広げるめくるめく純愛物語。焼き魚定食を運んでくるB子さんのウインナーのような指を見る度にA氏は押し寄せる激情に抗うようにサイのような目をそっと伏せる。B子さんはA氏の食べ終えた皿の上にいつも決まって律儀に並べられた割り箸とつまようじを見るだけでバッファローのような背中に大量の汗と微電流が走る、ので、あった、とか。来る日も来る日も日曜と定休日を除いて繰り返されるもどかしくも壮大な愛の三十分。

別にいつもの下らない冗談を言ってるわけじゃない。この世に男と女がいて、その中の一人と一人がたまたま半径二メートル以内に同時存在すれば何かのはずみに火花が散って、引火して、大爆発しても不思議じゃない。美女とハンサムじゃなくてもそういう摩訶不思議なアクシデントは起きうるし、現実に摩訶不思議の大爆発は毎日どこかで起きている。そのマカフシギをちゃんと書こうとしている小説を僕は読みたい、と願っている。

ほっそりとした美女と肩幅の広い自由業の金持ちハンサムが、出会って、恋に堕ちてもちっとも不思議じゃない。そんな二人が代官山あたりの隠れ家的フランス料理屋で年代物のシャトーなんとかを飲み、新宿のシティーホテルのスイートルームで大都会の夜景を横目に組んずほぐれつの一夜を過ごしたところで「ああ、それはようござんした。さぞかし特権的ラグジュアリーなお時間だったことでしょう、ハイハイ」としか僕は思わないのだ。なに?ひがみとな。まあムキになって否定するのも大人げないしそういうことにしといてやる。だが僕には忘れ得ぬ極上のラブシーンが、忘れることがおのれの役割かと勘違いしている僕の脳みその片隅にしっかりと残っているのだ。ただそれは残念ながら僕のことではない。

今から十年近く前になるだろうか。季節は夏だったように思う。場所は四国の高松。僕はフェリーの時間待ちで港近くの高松城趾の石垣に友達と腰掛けていた。その辺りはフェリーの切符売り場、待合所の古びた小さな建物ぐらいしかなく、人気のない静かで荒涼とした場所だった。僕は港に出入りする小型のフェリーをぼんやり見ながら煙草を吸っていた。その視界の片隅に人影が入ってきたのにもしばらく気がつかなかった。それは高校生の男女だった。なんだか妙な気がした。日頃見慣れている今の高校生とは異質に感じられた。男の子は黒い学生服、女の子はセーラー服、そして二人とも実に立派な体格をしていた。相撲部の主将と砲丸投げの香川県チャンピオンだったかもしれない。とにかくよくそんな制服がこの世にあったなあ、と感心してしまうようなもの凄い体格の二人が、しっかりと手を繋いでいた。太陽が二人だけを照らしているように見えた。他の世界はその二人を引き立てるためにモノトーンに褪色し、二人のいる場所だけが“ピンク”だった。その男の子の汗まみれの晴れがましい顔と、同じくLLサイズ女子の文句なしの嬉しそうな顔。僕はその二人からしばらく目が離せなかった。あんなに恥ずかしそうで、開けっぴろげで、繊細で、堂々とした“恋の情景”というものを僕はその時初めて見た。神も仏もマホメットも全員一致の精一杯の祝福が与えられている光景。僅か数分の映像、どちらも一言も語らぬ無言劇、二人にしか見えぬバージンロードを歩んでいるかの如き悠々たる真っ直ぐな行進。これが僕の秘蔵のラブシーンなのだ。

確かにこれは恋愛小説向きじゃあないだろう。やはり女優と小説家の方が支持者は多いに違いない。でも、“恋”の本質は逆にそれでは書けないんじゃないだろうか。恋をモチーフにした物語は書けても恋というシンプルで奥深い現象の正体は実はとても書きにくいことなんじゃないかと、思う。

そういえば喫茶店のマスターが主人公の恋愛小説というのもありそうでないよね。今度グロスマスターKにあの美人奥さんとのなりそめの話を聞いてみるとするか。

きっとあの訳のわからない表情で「忘れましたねえ」と答えるんやろな。でも照れてるんでもしらばっくれてるんでもなく、本当に忘れてるのかもしれないところがシャレにならんよなあ……おい!起きてる?