昨年三月末にこの玉野市後閑の家に引っ越してきてからちょうど一年が経った。ものを作るという僕の仕事にはとても使いやすい家でここで生活をしている時間のほとんどは仕事をしている。それでも最近習慣になってきた楽しみは食事の時に小川洋子さんの本を一章ずつ読むということである。僕は料理も食べるのも早いのでよほど短い一章でなければまずいのだが幸い小川さんの本は短編集が多い。

小川さんは芥川賞の選考委員をされていることからわかるようにいわゆる純文学の作家だ。僕が日頃読むのは量的にはイギリス、アメリカのミステリー系の小説が多い。学生の頃は大江健三郎、安部公房、開高健などの第三の新人とよばれる作家が大活躍していた時代だったのでそういう純文学が主食だったがいつのまにか深く文学を味わうことが面倒になってきてとにかく面白ければいい、というやくざな本好きになってしまった。でもこの数ヶ月は小川洋子さんの本をテーブルの真ん中あたりに置いて読みながら食事をするという妙な読書スタイルが気に入っている。

彼女の作品世界はとても個性的だと思う。たぶん三行読んだらそこにある小川洋子的なものはくっきりと浮かんで見えると思う。それはやたら句読点が多いとか少ないとか、やたらセンテンスが長いとか短いとか、そういう文体の特徴から感じられるものではない。

例えばある少年を描写しているとしてもその少年はどこがどうというわけでもないのにどうもこの世ならぬところからやってきた少年のように感じてしまう。いわゆる現実離れした存在感なのだ。何か最初から位相がずれているみたいなのである。どんなに現代的で現実的な細部を丁寧に描いていたとしても、なのだ。これを他の誰かに似ているというありきたりな尺度を無理矢理適合させるなら僕が思いつくのは宮沢賢治だろうか。だが宮沢賢治の場合はその夢見心地が夢見がちな子供という読者と当然の幸せな関係を確保されている。小川洋子の読者のほとんどは大人であろう。大人の読む純文学の作品としてこの世ならぬ不思議な世界に一ページ目から連れて行かれるという感覚はとても珍しいと僕は思う。

今僕が読んでいるのは「人質の朗読会」という小説なのだがこれは八人の日本人が海外旅行中にテロリストに誘拐され、長い監禁中に一人ずつが自分の人生の中で何か他の時間と違う、特別な出来事を書いてそれを残りの七人に読んで聞かせるという形式になっていてその一人分が一章を成している。 テロリスト、誘拐監禁という設定はとても現代的、具体的な話だし八人それぞれの社会性も専門学校教授、工場経営者、貿易会社事務員など特に変わった職業の人もいない。その市井の善良な普通の人々がいざ語り始めるとそれは紛れもなく小川洋子の作り出した浮世離れした不思議な人々に変貌する。 彼女の位相の特異性というのは彼女自身のこの世界との関係のずれではないか、と僕は思っている。これは思い切り失礼な分析になるかもしれないが決して文章家として努力して身につけたテクニックや探しまわって見つけた場所ではなく本質的に備わっていたちょっと変わった人格の表出が大いに作用しているのではと思う。

実は僕は小川洋子さんと若干の面識がある。 今から15年ほど前、僕は作家として転機を迎えていた。古代ガラス作家という慣れ親しんだ看板をむりやり引きずりおろしフレスコ画家という新しい看板に架け替えようとしていた。その節目になる展覧会を二ヶ月後ほどにひかえたある夜、その時も僕は小川洋子さんの本を読んでいた。それは森の中でチェンバロを作っている男の話だったがそのどこかにフレスコという言葉が出てきた。僕はこれからの作家生活をその些細な偶然に賭けてみようと思った。どなたにも経験があるだろうと思うのだが深夜にふと思いついたことというのはだいたい現実感のない突拍子のないアイデアがほとんどなのだが僕のマズい点はそれが次の日に持ち越すという点である。僕は翌日いろんなつてを辿って小川洋子さんの連絡先を調べ(そのころはまだ今ほど個人情報というものが厳密でなかったのだ)大きく一息ついて電話をした。実はこうこうこういうことで僕の新しい一歩を踏み出す記念に小川さんに短い文章を書いて頂きたい、いつか近いうちに絵を見て頂いて文章を書いてもらえないだろうか、というまことに勝手なお願いを小川さんは気持ち良く(かどうかわからないけど)引き受けてくれた。

数日後僕は描き上げたばかりの数枚の絵を持って当時彼女が住んでおられた芦屋に向かった。それから一週間ほどして一枚の原稿が僕の元に送られてきた。それが以下のようなものである。

 ある雨の降る日の午後、一人の芸術家がフレスコ画を一抱え持って訪ねてきた。我が家の殺風景なリビングに、一枚、一枚と絵が飾られていった。
 それらはどれも慎ましやかだった。と同時に、深くこちらの心に根ざしてくる視線を放ってもいた。女性たちは無表情な目で世界の果てを見つめ、羊は遠い過去に思いを巡らせ、檸檬は震えるような予感を秘めている。
 矢野太昭氏のフレスコ画に耳を澄ませていると、物語が聞こえてくる。古代からずっと絶えることなく語り継がれてきた、誰が作ったとも知れない静かな物語が、鼓膜に染み込んでくる。
 その響きに心奪われながら、私は雨の降る午後を、一人過ごした。

その後僕は偶然二度ほど小川さんにお目にかかったことがあり、その僅かな時間の印象で「なんか変わった人だなぁ」と思ったことを覚えている。どこか他の人と違う目でこの世界を見ているような感じである。世の中の様々な規則や常識は彼女を縛ることができないのではないか、そんな気がした。もちろん彼女にはちゃんとした常識も倫理観も人一倍備わっているのだろうが縛ろうとする縄の方が縛る気をなくしてしまうのではないか、そんな天性の柔軟な目が彼女の物語を作っているのではないかと僕は思っている。

今日も僕はいつもの簡単な食事の用意を済ませ、残り少なくなった「人質の朗読会」を読もうとしている。グロスのコーヒーをいつもより少し濃いめに入れて。