ナイジェル・マンセルというF1レーサーを覚えていますか? 15年ほど前、HONDAが本格的にF1に参戦し、日本中がモータースポーツの面白さに目覚めた頃、あのセナやプロストと共に時代を熱く塗り替えたイギリス人だ。なぜ彼のことを突然思い出したかと言えば一人の友人がマンセルのファンだったからで、それが「がっくん」だ。もちろん今をときめくミュージシャンの「がくと」とは何の関係もない。彼は世界を転戦するF1レースでマンセルの「おっかけ」をし、自前でシャンパンファイトをし、遂にマンセル本人から「お前は世界一ホットな俺のファンだ」と言わせしめた。荒法師と呼ばれ、つぼにはまるとセナもプロストもぶっちぎった正に世界一ホットなレーサーのマンセルからそう言われてがっくんがどんなに誇らしかったかは容易に想像できる。

実は僕はがっくんとは数回しか会ったことがない。でも僕にとってはホットな男の象徴として、なにか特別な友人と思っていた。初めて会ったのは彼が経営していた福山のイタリア料理の店「ラ・ヴィータ」でだった。カウンターの隅っこに座って僕はランチメニューのいわしとゴルゴンゾーラチーズのフォカッチャサンドを食べていた。人の気配を感じて振り向くとプロレスラーの川田に似た妙に迫力のある男が立っていた。

「あのぉ、芸術関係のかたですか?」その言い方がおかしくて僕は笑いながら彼をまじまじと見てしまった。黒ずくめの服装で髪は短く、小柄だけどがっちりしていてこわもてだけど目には好奇心の絶えない愛嬌がある。

「ええ、まぁそんな感じです」

その時僕は福山天満屋でガラスの個展をしていたのでたまたまバッグに入れていたDMを渡した。

次の日、会場にがっくんはやってきた。ソファーに向かい合ってかなり長い間話をした。マンセルの話、ラ・ヴィータを始めるまでの話、けっこうややこしい彼の内面の話、僕はほとんど面白がって聞いていただけのような気がする。そして僕はがっくんを大好きになった。

それ以来、福山に行くたびに僕はラ・ヴィータに行き、いかにも彼の店らしい勢いのあるイタリアンを楽しんだ。

ある時、友人と二人でランチに行くとがっくんは今日おすすめの料理があるから是非食べてくれという。僕はもうパスタを注文していたが面白そうなのでそれも頼んでみた。出てきたのは僕の頭ほどあるマグロの頭をいろんな野菜やたっぷりのハーブとともにオーブンでじっくり焼いたものすごい料理だった。だが食べてみると味は思ったより淡泊で友人と二人で綺麗に食べてしまった。食後のカプチーノを飲み終え、チェックをすませて計算してみて驚いたのだがその料理は確か800円ぐらいだった。とにかくラ・ヴィータはそんな店だったし、がっくんはそんな男だった。

今年の桜も終わりかけのある日、行ってみるとラ・ヴィータは閉まっていた。ドアに貼ってあったなぐりがきのような取引業者あてのメモにあった電話番号に電話してみるとがっくんのお母さんがでられた。事情があって突然店を閉めることになった、残念でならないがどうしようもない、がっくんは体調を崩してやすんでいる、ということだった。涙声のお母さんの様子から僕は詳しい事情を聞くことはできなかったがいつか、きっといつか再開してほしいと言づてを頼み、電話を切った。

いなせなシェフ、賢そうな女性パティシエ、クールなソムリエ、そしてがっくん、みんないなくなってしまった。

マンセルは最強のレーサーであると同時に最も絵になるレーサーでもあった。そして彼が一番かっこよかったのは表彰台のまんなかでセナやプロストに祝福のシャンパンを浴びている時ではなくエンジンをブローさせてリタイアし、大きな体を少し猫背にしてスタンドに手を振りながら小走りに去っていく姿だったと僕は思う。でも彼は次のレースでは懲りもせずにレッドゾーンを振り切ってコーナーを攻めに攻めたじゃないか。

攻める男は悲しい。危ない。