風呂から上がり陽月の二階から石畳の通りを見下ろしていたら流線型のヘルメットをかぶった三人の外国人が自転車を降りて楽しそうに写真を撮り合っている。まだ夜の9時をまわったところだが人通りはほとんどなく、どこからか三味線の音でも聞こえて来ぬかと耳を澄ますが彼らの陽気な英語の会話以外何も聞こえない。生まれて初めての金沢の夜。

自転車の外国人達が行ってしまうと何も動くものはなくなった。僕は考えている。「もし、あの時本当にこの街で暮らすことになっていたら僕の人生はどんなものだったのだろうか……」と。

42年という「もし」を設定するにはあまりに昔になりすぎた僕の幻の金沢生活が東山茶屋町の秋の夜にぽっかりと浮かんでいる。

陽月という旅館を知ったのは手嶋龍一の「スギハラ・ダラー」という小説からであった。英国秘密諜報部員スティーブンが親友で米商品先物取引捜査官ブラッドレーを情報の御礼にワシントンから日本に招待して金沢の陽月という旅館にしばらく滞在させてもてなす、というくだりから僕はもし金沢に行くことがあれば必ずこの陽月に泊まろうと決めていた。

この度金沢を訪れたのは金沢からまだ北に車で二時間半ほどのところにある珠洲市で個展をするためである。時間の余裕があれば輪島などこのあたりの面白そうな土地をあちこち廻りたかったのだが明日レンタカーで珠洲まで行き、夜にまた金沢に戻って来て明後日の朝には大阪に向かわなければならない。だから金沢は夜しか見ることが出来ない。

今日は午前中大学の授業を岡山でして昼過ぎに出発し、金沢に着いたのが4時半だった。かろうじて21世紀美術館を見ることが出来たが美術館を出ると外はもう真っ暗だった。兼六園の真ん中を抜けて歩くと金沢城の巨大な石垣が緑色にライトアップされていた。それは歴史の重みの象徴というよりむしろ近未来の異様な要塞かなにかに見え、その突然現れた光景をきっかけに僕の異邦人的メランコリースイッチがオンになった。それからずっと僕は現実離れした頼りない旅人気分で過ごしている。何を見てもそれは大がかりで実によく出来た映画のセットのように感じられるのだ。

たぶんこの陽月のある京山茶屋町という街は所謂街並保存地域なのだろう。江戸から昭和初期までを微妙に調和させて残した観光スポットなのかもしれない。この街をそぞろ歩く旅人達はそれを目当てに来ているのだろうが僕はまったく知らなかった。ただ手嶋龍一の小説に登場する宿に泊まりたくて来てみたらそういう不思議な時間が流れている街であった、というだけなのだ。しかもウイークデイなので人がほとんどいない。ガス灯のようなデザインの街頭の下を訳ありげな猫がそろりそろりと歩いている。その上を見ると「コールドパーマ」と書いた古びた看板が架かっている。その隣の立派な石造りの建物は何かと見れば創業100年の洋食屋である。

何も知らずに迷い込んだ僕をもの狂おしい気分にさせるに十分過ぎる演出だった。それこそ某国のスパイが今まさに国の運命を左右させる機密情報を向かいの茶屋から暗号で送っていたりして。

妄想はとめどないが明日の朝は早い。もう寝ないと。オヤスミ。

二日目

昨夜洋食屋で「夜もあります」とメニューに書かれたランチを食べ、その後散歩していて見つけた喫茶店でコーヒーを飲んだ。その店はとても素敵なデザインのステンドグラスが何枚か窓にはまっていてレトロモダンないい雰囲気だった。

「エルキュールポアロの時代ですな」

「は?」

「アールデコのかぐわしい香りがします。素晴らしい!」

いつものごとく知らない街の喫茶店に入ると図々しくカウンターに座り我が物顔で訳の解らない話に無理矢理ひきずりこもうとするのは僕の悪い習慣である。

「あのステンドグラスの由来やいかに?」

「この建物は昭和初期に外国の小間物を商うナントカ商会として建てられたんですが、その時に外国から輸入されたものです」

「ほら、やっぱりアールデコ。エルキュールポアロ」

「は?」

こんな調子で僕とマスターの噛み合わせの悪いせめぎ合いは延々一時間以上におよんだ。

さて、それはさておき金沢二日目は7時に起きて件の喫茶店近くのレンタカー屋で1000ccのせこい車を借り、ひたすらカーナビを信じて珠洲に向かった。金沢の市街地を20分ほどで抜けると能登里山海道という自動車専用道路に繋がっている。そしてその道路に乗った途端にいきなり目の前に180度パノラマの日本海が開けた。

僕が高校生の頃僕達の世代のオピニオンリーダーの一人が五木寛之だったが彼がメディアに登場する時の写真はいつも前髪を風になびかせ海を見ている、という気障なポーズだった。これがその海なのだ。

海沿いを走り山を抜けいつまでも続くかと思われた無料自動車専用道路もいつのまにか対面通行の珠洲道路に繋がっていて、それでも適当にくねりながらもいつのまにか半島の反対側の海岸に出た。

ギャラリーに着いたのは昨晩喫茶店のマスターが予言した通りに二時間半後の午前10時半ぐらいだった。

写真で見てある程度は知っていたが珠洲のギャラリー舟あそびは素敵なギャラリーだった。そのオーナーの舟見さんは僕よりずっとずっとお若い女性だがものを使う、飾る、というツボをよく心得ておられる。古い民家を上手にギャラリー化していてとても上手く作品を並べてくれていた。僕は来られたお客さんとまたまた訳の解らない話に精を出し、その合間に金沢と珠洲の街を誉め讃えた。

それは決してお世辞ではない。珠洲に関してはナビの言いなりにここへ直行したのだから誉め讃えるにはいささか材料不足ではあるがお昼に舟見さんにいただいた海鮮丼の豪華で新鮮だったこと、それだけで十分であった。

この文章のイントロで書いたように僕にとって金沢という街は若い時に暮らす可能性のあった街だった。

前にも書いたとは思うが僕が函館中部高校の三年生の頃進路希望を聞かれて最初に答えたのが金沢美術工芸大学だったからだ。全国模試ではいつも合格圏内だったが問題は実技試験である。親友の計良君と二人で酔いどれ絵描きのT先生に石膏デッサンを習いに行き始めたがさすがの世間知らずの僕達もこんなことで美大になんか入れるはずない、ということはじわじわとわからざるを得なかった。

結局受験直前に二人とも美大を諦め、僕は岡山大学、計良君は立命館大学に入った。

そのことは僕の中でずっと「もしあの時~であったなら」という甘酸っぱい仮説としてとどまり続けて来た。

何故美大に入ろうと思ったかと言えばもちろんアーティストになりたかったからであり、何故諦めたかと言えば美大に入ったからといって必ずアーティストになれるわけではなく、美大に行かなくてもアーティストになる道はあるのでは、と自分に言い聞かせたからだった。

そして今回42年の年月を経て僕は一応アーティストとして金沢の地にたどり着いた。

一種の感慨のようなものは確かにあった。しかし同時に「あの時~であったなら」という思いが消えたわけではない。

話が行ったり来たりして申し訳ないが僕が金沢の陽月という宿を知ったのは手嶋龍一の「スギハラ・ダラー」という小説からだった。そしてその手嶋龍一の本を僕にすすめてくれたのは一度だけお目にかかった西野さんという方だった。写真家で精神科医の尾上君が紹介してくれて数年前西野さんが岡山に来られた時にグロスで一時を過ごしたのだがその時に交流のある手嶋さんの本を教えて下さった。その西野さんは函館中部高校の先輩である。

それらのばらばらの事実を一所に集めて繋ぎ合わせ、僕なりの一本の文脈を構成するなら、函館、金沢、岡山、アーティスト、これらが42年の中で巡り巡って円を描き、今回閉じた。

何が何を導き何と何が関係しているのか、今のところ完全に腑に落ちたわけではないがとにかく一つの物語の第何章かが終わった、という気がする。

金沢二日目の夜もふけた。今夜も京山茶屋町には人通りはほとんどなく、昨日見た猫がどこからか現れ、しっぽをくねらせながらゆっくりと闇の中に消えて行った。