「ギャラリーやぶき」という名は岡山では多くの美術ファンに知られたものであり、若い作家にとってはある種の権威、あるいは目標のようなものであったと思う。そのギャラリーやぶきが今年の春27年の輝かしい歴史の幕を閉じた。

僕にとっては一番長く関係してきたギャラリーであり、記憶が不確かではあるが多分27年前にやぶきがスタートした最初の企画は倉敷ガラスの小谷真三展でありその次が僕の個展だった。そして今年の2月に最後から二番目の作家として個展をさせて頂いたからほぼ最初から最後までやぶきと関係させて頂いたことになる。そういう立場であればいくらか偉そうにギャラリーやぶき論を語ってもよいかな、と思う次第。

ちょうどこの27年は日本の経済の最高と最低を含む。土地や株と同じように美術市場も急激な膨張とそれ以上に急激な収縮があった。

そういう大騒ぎの中でやぶきは右往左往することなくずっと「良いギャラリー」であり続けたのはもう立派としか言いようがない。特にバブルがはじけて全国の多くのギャラリーが行く末に蛍の光ほどの光明をも見出せなくなっていた頃、「なぜやぶきはうまくいっているのか」という話題がよく聞かれた。僕もそういう話題で意見を求められたことがあってその度にいろいろ考えてみたのだがうまく考えをまとめることもまして助言することもできなかった。

話がやや逸れるが僕は学習(最近よく学びなどと言い換えられているがこれも気に入らない)や教育などというものが好きじゃない。それは「誰か自分以外の人が答えを知っている」という状態を前提にしているからでなんだか安易な感じがするのだ。少なくとも現実の社会、特に僕達のような職業をやっている人間にとっては他人の答えはもう自分にとっては答えではない。もちろん自分が知らないことのほとんどを誰か他人が知っている。その教えを請うことはしょっちゅうある。それで問題が解決すると心から感謝する。だがそれは完全に限定的な具体的な問題であり、「どうやったら作家になれるか」みたいなぼんやりしたことではない。そんなことを平気で聞くのはメディアの人ぐらいである。だから「なぜやぶきは成功したのか」というこれからする話は決してこれからの人への教訓や示唆などではない。一つの物語である。

先日来矢吹さんとゆっくりお話をする機会が二度ほどあった。現役の時には言えなかったことなどもいろいろ聞けて「なるほどなあ」とか「そうだったのか」ということも多々あった。

「今だから言えるけど私が27年前にギャラリーを始めたのはそんなにちゃんとした考えも計画もあったわけじゃないのよ。ギャラリーでもやってみようかな、みたいなことだったのよ」

もし今誰かが僕に「ギャラリーでもやってみようか」と相談したとしたら僕は即座に「やめといたら」と答える。それもかなり感じ悪く。

何故ならギャラリーは僕にとっては生活の糧を得る場所であり、他者と深くコミュニケートする場所であり、緊張と解放を同時に味わう言わば「聖地」だからだ。ギャラリストにはそのことを理解していただきたいし少なくとも個展期間中は同じ舟に乗り合わせ、喜びも痛みも等分に分かち合って一本の命綱で互いを縛り合う覚悟を持って頂きたいと願っている。もしギャラリーというものをただ白い壁に囲まれた、天井からたくさんのスポットライトがぶらさがった空間と定義する方がいたら僕は一緒に仕事はしたくないし、このいささか過度な思い込みは「ギャラリーでもやってみようか」という軽さとは相容れない。

だが矢吹さんはそんな調子でギャラリーを始めて幸運にも成功してしまった。そこには時期的な幸運はじめいくつもの偶然がうまく噛み合って進行したという要素は必ずあっただろう。だが27年前にほとんど素人であった彼女の仕事ぶりを知っている僕から見たらそれはとても「ギャラリーでも……」といった軽いスターターには思えなかった。その根拠を具体的にあげるならその時の僕の個展に来て作品を買って下さった方の多くはそれまでにもギャラリーで物を買う経験のあった方でその多くは矢吹さんの以前からのお知り合いに見えた。ギャラリーというものをよく理解し、愛し、自分の眼でものを見つつなおギャラリーオーナーの眼を信頼している素晴らしいお客さん達であった。そういう人達を人間関係の中に持ち、美術品の売り買いという特殊な呼吸をすでに無意識のうちに会得していたということなのだろう。

もう一つ彼女の思い出話のなかで『なるほどなあ』と合点がいったのは僕が矢吹さんを知るもっともっと前、多分彼女が二十代のお嬢さんであった頃に既に岡山の幾つかの格式高いギャラリーに出入りして自分のお小遣いで好きな絵や版画、陶磁器などを買っていたというエピソードについてだった。

彼女が行くとギャラリーのオーナーはとても喜んでくれて使いの者を走らせて美味しいおまんじゅうなどを御馳走してくれたらしい。今でも若い女性という存在はいろんな場面で得をするものだが画廊という当時完全に男文化であった場所においては異分子であると同時に最優待されるゲストでもあっただろうことは想像できる。

矢吹さんは40歳でギャラリーを始めたがそれ以前にちゃんと岡山の美術界で名前と顔を長年かけて知られる存在になっていたということだ。それはいつかギャラリーをしたいという下心あってのことではなく生活の中に自然と組み込まれていた「自分の好きなこと」であったことに意味があるのだと思う。だからこそギャラリーやぶきのお客さん達は27年の間矢吹さんの眼に信頼と尊敬を持てた。これは今から真似をすることはできないし、参考にもならない。

矢吹さんは実は数年前からギャラリーを終えることを決めていてその準備を少しずつしていた。ギャラリーと作家とは互いに財産であると同時に責任を相互に感じている関係でもある。だから矢吹さんが一番気にかけていたのは自分のところで個展をやってきた作家のことであり、その人達に納得してもらう形でいろんな調整などに苦労をされた。そして最終的に発表をされたのはやめる半年ぐらい前だっただろうか。当然多くの方がショックを受け様々な形で説得を試みたが矢吹さん本人は「惜しまれてやめられるのは幸せだ」とおっしゃっていた。確かに始めることはなんとなくでも出来るがきれいにやめるということは難しい。惜しまれて、となればよほどのことである。

昨今どこのギャラリーでも多かれ少なかれあることだがやぶきのお客さんにも年配の方が多かった。人間国宝のI先生はじめ多くの高齢の作家や同じく高齢のコレクターの方などやぶきを信頼し生活のパターンの中にやぶきの空間を組み込まれていた方はどんな形でもいいからやめないで欲しいとお願いされたようだった。僕もやぶきでそのような先輩達とたまたまお目にかかって話をするのは楽しかった。あるいはもっと若い人達が僕が先輩方と話をしているのを聞いていたり話に加わることもあった。そういう年代も立場も越えた自然な交流が成立できる雰囲気というものがやぶきにはあったし矢吹さんもたぶんそのことを喜んでいた。

失われたものは決して小さくないし、それを惜しむ気持ちは強いがだからこそよけいに見事な幕引きであったとも言える。

あまりに思い出は多いので何を書いてもむしろ何も書けなかったという思いしか残らない。

いつものようにとってつけたようであるが僕にはこのグロスもやはり大事な場所である。むしろ過ごした時間でいえばグロスの方がずっと長いに違いない。

グロスマスターKよ、まだやめないよね。

背筋を伸ばして過ごす合間にアルマジロのごとく背を丸めて遠慮なくため息をつく場所も人には必要なんだから。

タノムヨ。