「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが……」

Tさんの声が変わった。

銀座のギャラリーTのTさんとは会ったことはないが仕事のことで何度か電話で話をしている。いかにも東京の業界人らしい柔らかく如才ない話し方をする人だが、初めて壁のこちら側にやってきたような、とまどったような、内緒話っぽい声になった。

「Kさんというかたから今日お電話があったんですが、先生のお知り合いでしょうか?」

その日は彼のギャラリーでのグループ展の最終日で、僕は忙しくて会期中行けなかったのだが無事展覧会が終わった挨拶の電話だった。だが最終日になって僕の作品を買いたい、数日後に銀座に出向くのでそれまで作品を残しておいてくれぬか、とKという女性から電話があった、ということだった。そういうことは珍しいことではないし、一つでも余分に売れれば僕も嬉しいからそのことは問題ない、と返事をした。

だがKと言う名前には記憶がない。いや、あるような気もするのだが作品を買ってくれそうで東京近辺の人と絞り込んでみるとまったく思い当たらなかった。実はKと言う名前はかなり変わった名前である。知り合いならば忘れるような名前ではない。

「そうですか……」

Kさんは僕の返事を聞いても何かまだもやもやしていた。僕は彼が何をためらっているのかさっぱりわからず、とりあえず話を進めるつもりで聞いた。

「そのKさんってどんな感じのかたでした?」

「それが、ちょっと変なんですよ……」

「変、ですか。どんな風にです?」

Tさんはまた少し間をおいて答えた。

「なんだか眠ってるような感じなんです」

眠っているようなしゃべりかたをするKという女性。僕の頭の中に開きかけているひきだしがある。だが結局思い出せぬままとにかく作品を数点預けるということで電話を切った。

その後も数日後に迫っている静岡の個展の仕事をしながら僕はKという誰だかわからぬ女性のことを考えていた。僕はもちろんその人に展覧会の案内を送っていないし、Tさんも今回はマスコミ関係には広報をしていないという。ならばKさんはどうやってその展覧会のことを知ったのか。そしてなぜ実際に見てもいない作品を買いたいなどと言ったのか。

僕の記憶ははなはだ散らかっている。系統というものがない。あえて絵にするなら無数のひきだしのそれぞれにありとあらゆる種類の断片がなんの脈絡もなくぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、開けてみるまで何が入っているかわからないでっかい薬だんすみたいなものだ。その引き出しのどれかにKという名前がある。僕はほとんど諦めながらも忘れることもできずに夜も仕事をしていた。人が何かを思い出す時とはそんなものかもしれない。なんの前触れもなく僕の引き出しの一つが開いてKという名前が一人の女性の存在にすりかわった。

Kさんは僕の函館市立大川中学時代の同級生だった。Kは結婚後の名字で旧姓はIという。結婚後の彼女とはほとんど会っていないので思い出せた方が不思議でもあった。違う高校に進学し、大学も彼女は東京の大学、僕は岡山大学と、まったく接点のないままであったが、僕が大学を休学してしばらく東京に住んでいた時、どういう経緯であったか忘れたが一度だけ会ったことがある。その後彼女は大手出版社のH社に就職し、有り難いことに美術関係の部署にいたので僕は彼女のお陰で格安に美術書を買うことができた。だが多くの学友の関係がそうであるようにいつのまにか彼女とは会うことも電話することもなく、それぞれの日常の中に埋もれていった。」

だが今から十年ちょっと前のことだろうか、突然彼女から電話があった。

「もしもし、私はIといいます。あなたは私のお友達でしょうか?」

普通そんなことは言わない。久しぶりに声を聞く相手であってもそんな挨拶はない。その後どんなやりとりをしたのだったか、あるいはご主人という人からその訳を説明されたのか、何もかも忘れてしまったが、彼女は「記憶喪失」であった。

自分が誰であるのかを失ってしまった彼女は手帳にあった僕の電話番号を回し、自分の断片を僕に求めてみたようだった。僕はどう彼女と会話を成り立たせていいのか戸惑いながらも中学の同級生であり、その後はかくかくしかじかのことがあって、今は岡山にいて、こんな仕事をしていて、いつか東京に行くことがあったら会いましょう、と言った。だが結局その時が彼女の声を聞いた最後であり、確かにその声は眠っている人のようであった。

僕はすぐにギャラリーTに電話をした。運良くTさんはまだいて、僕はKさんのことを説明した。「記憶喪失」という言葉にTさんは幾分不安そうであったが、僕は彼女にはしっかりしたご主人がおられて心配はないし、決してご迷惑をかけるようなことはないからと言って電話を切った。

なぜ彼女はギャラリーに電話をしたのだろう。どうやって展覧会のことを知ったのだろう。本当にギャラリーに現れるのだろうか。彼女の今はいったいなんなのだろう。何もわからない。

たぶん彼女は今でも失われた時を求めている。想像もつかぬ孤独を生きている。僕はギャラリーからの連絡を待っている。